まだ生きている

最近、私が「死」のことばかりを考えていたからなのか、
本当に知り合いが自殺した。
もしくは、知り合いが強烈に「死」の匂いを放っていたので、
それを勝手に感受していたのかもしれないなー、
なんてことも勝手に思った。


喋った事のある人が、
「自殺」したのは初めての経験で、
「自殺したらしいよ」
と、人から聴いたときは、頭の中が真っ白になった。
3秒ぐらいたって、
「でもそれも考えられるな」
と、冷静に判断している自分がいた。


ほんとうに「死」を選んだ人が身近にいるということ。
その現実に、ひやり、としたものが背中を走る。


ただ、ほんとうに生きてるのが辛かったんだろうな、と思う。
生きてるのが、辛くて、辛くて、辛くて、
もう、イヤで、イヤで、イヤで、仕方が無かったんだと思うと、
不謹慎かもしれないが、
「死ねてよかったね」と思ってしまう。
絶対に「がんばれ、生きろ」とは言えない。
死んで、どうなることもない。
ただ、「終わったのだ」
その人の人生が終わり、この世を感受する生き物が、
ひとつ消えた。
彼のことを知っている人々は、少しの衝撃を受け、
しかし、さして人生が変化することなく、
私たちはまた明日から淡々と日常が始まる。


自殺は究極的な自己表現だ。
言葉や、音楽では、人には届かないなにかを、
「自分で自分を殺すこと」で、
人に何かを痛切に訴えている。
もしかしたら、恨みや、憎しみや、悲しみかもしれない。
それか、全くの、虚無、かもしれない。
真っ黒な空洞。ドーナツの穴のような。
私はその気配を感じつつ、
でも、やっぱり何でもなかったような顔をして、
日々を暮らすだろう。


本当に不謹慎かもしれないけれど、
人の自殺を受けて、どこか、軽くなった自分がいる。
彼はみんなの真っ黒なドロドロを全身に吸収して、一緒に何処かへ消えた。
都会で人身事故が起きるたびに、
電車が遅れると不平不満を言いながら、
人々はもしかしたら、どこか軽くなっているのかもしれない。
「キョウモワタシノカワリ二ヒトガシンダ」


そんな不謹慎な想像や妄想を繰り広げ、
そしてそんなことを考えた事もすぐに忘れ、
私たちはこの世界にこの肉体を持ち、
心臓を動かし、全身に血を送り、肺を動かし、呼吸をして、
それを毎日毎日繰り返して、まだ生きてる。
ドロドロも、まだ生きている。


まだ、生きている。