日常に潜むちいさな奇跡

日常というものは不思議なもので、
だらだらと際限なく続くものなのかと思うと、
けしてそうではなく、
時々、非日常が舞い降り、
我々は小さな奇跡を目撃し、
この世の深淵に触れる。


思えば、こんなどうしようもない人間だけども、
これまでに奇跡はいくつか起きた。
そしてそれは、私という人間が、
泥の中でのたうち回っている、
そんなみっともない状況に降ってくる。
自由になりたくて、
今ここにある苦しみを、怒りを、叫びを、痛さを、
発露する手段として、
私は言葉を使ってきた。
言葉で私は私をそのまま表現して、
そして私は私を認識して、
ときには慰めもして、ずうずうしくも生きている。


私は恋こそ、この世の奇跡の真髄であると思う。
恋にも色々な発動の仕方がある。
動物的な本能のままに、
単純に体の相性がよさそうな人というのも居るし、
計算高い人なら経済的な利害の一致や、
先祖から代々伝わって来た、遺伝子の戦略みたいなものに、
突き動かされる人もいるだろう。
とにかく、色々なことをきっかけにして、人は人に恋をする。


恋をされたときに一方的にエネルギーが流れ込んでくるかんじとか、
二人でいるときに突然、時間という縛りから解放されて浮き出る感じとか、
自分の中から得体の知れない何かが溢れ出てくる感じとか、
恋というのは、そういう諸々のこの世の不思議がたくさん凝縮されている。
そしてあの感じは、体験してみないとわからないという感じで、
なんとも歯がゆい感じである。


一人で居るときも意識がそちらに向ってしまい、
その人周辺の全ての事柄が頭の中に流れ込んでくるという次第で、
つまらないことや、どうでもよいことに、
やきもきしなくてはいけない、という非常に非効率的で、
面倒な作業も恋の一部分ある。
そして些細なことで、傷ついたり、喜んだりする、
という、本当に元気な人でないと出来ないのが恋というものだ。


「その人が好きなのか 突き動かされる何かがあるのか」
と、問われるとよくわからない人をずっと意識で追いかけていて、
それを恋と呼ぶかどうかはわからないのだけど、
相手の恋の感じがあまりにも強烈だったので、
その恋の残骸みたいなものに引きずられていたのではないかと
気付いたのは、わりと最近の事である。
恋の残骸をなんとなく追っかけていたところ、
ふとしたことで、どうしようもなく落ち込み、
それこそ地の果てまで転がり落ちてしまい、
あの感じは多分私だけのものではないのだろうな、と思う。
きっと、あの人周辺にいるあの人が女の人を食い散らかした、
全ての女の人の中にある魑魅魍魎とした世界だったのではないかと思っている。
そして私は全てを見てしまったのだ。
女の辛さ、切なさ、醜さ、恐ろしさ。
イザナミノミコトが黄泉の国でさらけ出した本当の姿や源氏物語
それらの世界と私はリンクしていた。


そこで女の悲しい性みたいなものを知った。
いつも女は待っているのである。
「私だけを愛してくれる誰かを」
しかし男は女にとって、いつだってろくでもない生き物であるので、
「本当に好き」と言っても、どうせいつかどこかに行ってしまうし、
自分だっていつ落ち込んでしまうかわからない、
世界は頼りないことを知っている。
そのことを知りつつ、男の暴力的で動物的なまでの、
アプローチに女は時々流されてしまうのである。


私は一人でも平気である。
一人でも奇跡を見続けることはできる。
しかし誰かと奇跡を見ることほど幸せなことはない気もする。
時間を飛び越えて誰かと永遠を一緒に見る瞬間を、
私は求めていて、この世をさすらっているような気さえする。