言葉で表すということ

例えば「どうして私はここに産まれたんだろう」
という、ほんとうに考えたってしょうもないことを考えるのが好きだ。
答えなんかけして出ない。
しかし人間は答えの出ないことを考えてはいけないわけではない。
むしろ答えの出る問題ばかり考えているほうが駄目になるように思う。


物事の大きな流れをみる。
そして読む。
私は私という世界しか生きられないが、
人が何かを発していれば、
それに同調することはできる。


私を酔わせて、飛ばせる強力な表現を求めている。
求めているばかりではなく、
自分で自分を酔わせて飛ばすことも同時にやって行きたいものだ。
極上の表現は、極上の麻薬だ。
近頃はそんなことばかり思っている。


日々感覚を極めていくことの中で、
いつの間にか袋小路に陥ってしまい、
考えが狭い世界でループし続ける、
という罠はいくらでもそこかしこに落ちている。


そして、「はっ」と気付くのだ。
なんて小さな世界でぐるぐると考えていたんだろうと。
しかし、その世界にいるときは気付かない。
とことんくすぶり続ける。


くすぶり続けたその日々を思い返すと、収穫を得る。
なぜその世界にハマり込んでしまったのかも解る。
そしてその時間は必要な時間だったことも知る。
私たちは他者に影響されながら生きている。
他者の世界に入り込み、その人自身が気付いていない、
その周辺の地獄がありありと頭の中に浮かぶ。
そのことで距離感を掴む。
こういう程度の感覚で関わっていけばいいのだと、
程よい距離を掴むのだ。
そして人生はスムーズに次ぎへと動き出す。


不思議なくらいに人生は運ばれている。
焦る必要はない。
大きく構えて、どんな状況に陥ろうとも、
全て自分の人生に必要なものであると受け入れていく。
ただそれだけなのだけど、
人は受け入れられずに、右往左往し、
エネルギーを激しく消耗するのである。


人生は決まっている。
運命というものがある。確実に。
慌てず、焦らず、何かに執着せず、
しかし大事なものを人生の一瞬一瞬の中に見極めて、
日々を暮らしていくしかない。


向こうからやってくるし、
出会うタイミングも決まっている。
なるようにしかならない。
誰にも八つ当たりしない。
私たちはいずれ死ぬ。
死ぬまでのこの時間に、
やりたいことを精一杯やりぬく。
ただ、それだけである。


お父さんとお母さんを思う。
私はお父さんの気質とお母さんの気質を、
間違いなく受け継いでいて、
二人の子どもなんだなぁ、としみじみ思う。
ここにある欲望や願いや祈りは、
私だけのものではない。
では、誰のものか?
と、聞かれると、お父さんお母さんでもない気がする。
彼らもよくわからないままに導かれで出会って結婚して子供を創ったのだろう。
私はただ私として生き切るしかない。
その為には言葉を使う必要がある。
私の思いを思想を。
それでしか、自分を表現する手段がないからだ。
ダラダラと言葉を使おう。
脳や、筋肉や、血や、子宮や、体全体を使って、
全てを書いていこう。
自由にキーボードを打ち続けていこう。
何も狙わずに、そのままに、ここにある命のうねりを、
まるごと置いていこう。
それをするしか、もはや、残された道はないのである。