孤独→不快→馬鹿

最近はよしもとばななを読みまくっていて、
もうかつてないほどに、文章の中の住み心地がよくて、
これはほとんど依存と言っていい。
なんで本を読むかというと、自由になりたいからだ。
表現はなんでも、自由になる為にあるべきだ。
だから音楽も聴くし、絵も観るし、本も読む。
ピナ・バウシュのコテンポラリーダンスに感動したのも、
魂が自由になって心の底から喜んでいるのがわかったからだ。


最近孤独感が増している。
家族ともうまくいってないし、
友達ともあまり会わないし、恋人もいない。
しかし孤独=寂しい、という方程式を打破する言葉を金言を、
つい最近発見したので載せておく。


「“孤独感”とは“孤独=不快”で思考停止している馬鹿に与えられるペナルティである」


この言葉さえ心に持っていれば、死ぬまで独りで生きれそうである。
高木荘太さんという人が書いた『プロ無職入門』という本の中に、
書かれているんだけれど、本当にどれもこれも最高なのである。


三鷹ハローワーク入り口には、“死とは生という夢から醒めるにすぎない”
という横断幕が掲げられており、人々に勇気を与えています」


とか、もう最高デス。
自殺とかいじめとか色々あるけれど、
いかに脳みそフル回転させて精神的に達観できるか、
というのがある。
そこまでして生き続ける意味はあるのか、
と言ったら、私はよくわからないけれど、
死ぬ勇気がなかったら生きるしかないので、
ではよりよく生きるためには、物事をどういう捉え方をしたら楽になれるのか、
と、自分なりに頭をひねるところから、人生は始まる気がする。


これからは友達になれなそうな人と、
無理に友達になる必要はないし、
おもしろくないことで笑ったりしなくていいし、
というのを、きちんとやっていこうと思う。
物事に対する力の入れ加減を調節していきたい。
私だけの克服すべき問題がある。
というか、多分生きている人それぞれにあるのだろう。
そういうものをきちんと意識しつつ、
とは言え、あんまりこんつめてシリアスにならないようにしつつ、
なんだかんだと、乗り切っていきたいと思う。
少しぐらいうまく行かなくたって、
長い目でみて、ゆっくりゆっくりやっていこうという、
そういう気分。


どんどん荷物を少なくしていければいい。
まったくのゼロの状態で死を迎えればいい。
一体どんなタイミングで、何がきっかけで死ぬかはわからないけれど、
いい感じで死ねたらいいと思う。
それも今生での行いによって違ってくるかもしれないので、
ちゃんと、自分の判断で、生きていかねば、と思う。

こないだ海に行って、素足で砂浜を歩いて、海水に足を突っ込んだのだけど、
とても気持ち良くて、津波に飲み込まれて亡くなった人達のことを思った。
海に食べられたんだなー、と思った。
海に食べられて死ぬのも悪くないなー、と思ったりした。
でも、死なない。多分。しばらくは生きてるだろう。
とりあえず病院の世話になって死ぬのだけはイヤだという気持ちが、
歳を重ねるにつれてどんどん大きくなっていくのは確かである。