大きくて真っ黒い力

オザケンアレを見てからというものの、
原発問題にそれほどの関心が向かなくなった。
周囲の反応も結構そんな感じのような気がする。
やっぱり原発問題は軍事問題だったんだ、
というのがはっきりと見えた。
一般庶民が手を出せない世界。
遠い遠い世界の話し。
それでも何かがあったときには、
私たちが被害に遭う。
それなのに本当の意味で関わっていけない。
そのもどかしさに苛立ち疲れて、もう随分たつ。
世界中に原発という名の核兵器が乱立していく、
この地球に私たちは暮らさなくてはいけない。
いつ地震が起こるとも、津波が起こるとも、戦争が起こるとも、
気が狂ったやつが原発に爆弾をぶち込むとも、わからない、
そんな世界に暮らしている。
そもそも世界はいつだって不安定だった。
そのことに本当の意味で気付いてしまって、
呆然とするしかないという状況なのかもしれない。
日本はいつもぐらぐらと揺れている。
創っては壊れ、また創って。
考えてみればひたすらそれを繰り返してきただけだ。
嘆いて、悲しんで、黙って、また創る。
つまりどんなに原発が世界中に乱立しようと、
私たち人間は結局いつか死ぬし、また新しく産まれる。
それは犬も、虫も、魚も、鳥も、花も、草も、全部そう。
地球は変わらない営みを続ける。
ただ、人間が地球の寿命を縮めようとしている。
それはエゴなのか、なんなのか、よくわからない。
よくわからない、大きくて真っ黒い力は、
確かに存在しているのだ。
それが敵なのかもわからない。
もしかしたら自分の一部分なのかもしれない、という予感がよぎる。
ただ、存在している。
存在しているという事は認めなくてはいけないものなのだろうか。
思えば、日頃から小さい単位でそういう葛藤を繰り返している気がする。
「そこにあるそれを認めるべきかどうか」
ただ気持ちの悪い言葉や文章が私の中を通過したとき、
「キモチワルイ」
をきちんと表明していこうかとは思っている。
そんな風にして自分自身を守っていく方向に向かわせている。
それが吉とでるか凶とでるか。
もちろん嫌なことも起きるだろう。
しかしそれも甘んじて受けるという作業をしてゆかないと、
自分の存在が世界に機能していかない、
ということがわかったので、とりあえずそうしている。


原発問題とすり替わるように、
オリンピック、韓国、そして最近はいじめ問題がニュースを賑わせている。
いじめも、よくわからない大きくて真っ黒い力である。
根っこをたどると原発といじめは繋がっているのかもしれない。あと戦争も。
私たちの世界は強いものが弱いものを虐げる。
そういう側面は確実にある。
くるくると強いものと弱いものは入れ替わっていく。
私たちは強いものが好きなのである。
結局みんな強くなりたい。
男の子は特にそうだ。
「強い子に育ちなさい」
それはごく当たり前の母親の言葉だ。
しかし、その母の口から放った呪文が時として、
子供をとんでもない方向に暴走することがあるのではないかと思う。
私たちは人間と言えど動物なのだ。
時として家畜同然の生き方もする。
野生の部分が溢れ出て私たちは暴走する。
野生と理性が合致してしまったらたちが悪い。
どこまでも自分を肯定し続けて他者を攻撃しつづける。
しかし、我々には確実にそういう欲望をもつ。
だから芸術がある。
スポーツがある。
私たちは突き動かされる衝動を持ち合わせ、
そしてそれを極めていきたいと思っている。
生きる事は極める事。
いじめと原発も極めてしまうと、
どうなるか。
それはもうただ、今想像した、その通りだ。


祭りに人間の衝動の根源をみる。
脈々と繋がる魂がそれを物語っている。
祭りという型に、人間をはめ込むと、
祭りは作動する。
人々は自然と高揚し、興奮し、解放させる。
不思議なもので、昔から知っているような気がする。
きっとそれは血の記憶なのだろう。
古の人の知恵を知る。
時を越え、人間の魂の営みを見る。
祭りは原発やいじめを突き動かしている、
大きくて真っ黒い力を、解放させ、浄化させる力があるのではないかと思う。
だから古くから人々は神事を大切にした。
神様は大きくて真っ黒くて凶暴で恐ろしい存在だということを知っていたのだ。
心に溜まったそれを解放し、昇華させる。
その正しい方法が祭りには詰まっているのかもしれない。
それは芸術と同じだ。
芸術は祭りなのだ。
表面的な快楽を得るものではない。
もっと根源的で魔術的な要素があって、
一気に違う世界に飛ばすものが芸術なのだ。
そのような「型」が必要だ。
今の時代、人々の魂にはまる「型」。
それは、きちんと人を救うのだ。
人々は無意識的にそういうものを求めていて、
そういうものをうまく形創る人間が現れるのを待っている。
真の表現とはそういうものだ。